It's K's life.

けーくんの備忘録です。2018年夏からケンブリッジのMBAに行きます。三島由紀夫と海老蔵に似てます。

【7年前から転載】 40年後の僕へ。

7年前、就職活動を終えた直後にFacebookに書いて結構バズった記事を転載します。

この記事を書いた当時の自分に対して胸を張れる人生を歩んでいたいと思うので、備忘録まで。

++++以下、転載++++

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結論から申し上げますと、5年間、憧れ続けてきた外務省に落ちました。

 

「悔しい。」

 

この一言に尽きる。

 

けど、今のこの想いから逃げては、本当の意味で前に進めないのだと思う。

むしろこの悔しさを糧にして、自分の人生を切り拓いていくべきなのだと思う。

だから、自戒を込めて、40年後、自分が輝いていられるように、他に在りえたどのシナリオよりも充実した生を歩めているように、5年間を振り返って、今の、この瞬間の自分の想いと、決意を綴りたい。

 

■外交官に憧れて

僕が外交官になりたいと思ったきっかけは学部時代に出会った模擬国連。一国の代表として国益を賭けて国際問題を討議し、妥結を図るこの活動に、僕はハマった。

特に嬉しかったのは全米大会と全日本大会で海外の参加者に言われた言葉。「外交官として常に全力で議場を駆け回り、国益達成に注力する姿に感動した。」「最高のロシア大使だった。一人のロシア人として敬意を表したい。」胸が熱くなった。

気づけば外交官として、世界の秩序を守りたいと考えるようになっていった。

 

けど、自分の興味の湧く国際問題は、日本の外交課題よりも、むしろ国際社会の課題、とりわけ途上国における絶望的な状況、先進国との差であった。

ぶっちゃければ、外交官にはなりたいけれど、日本のために本当に働きたいとは強く思えなかった。

 

それでも、結果がついてくれば道は開けると信じて、模擬国連に打ち込んだ。大会で最優秀賞を受賞し、模擬国連で自分にできる最高のパフォーマンスを実現できた。

運営にも精を注いだ。京都研究会の代表として、後輩を育てるために全力を尽くした。大会の運営統括として、より多くの参加者に模擬国連を好きになってもらえるように、働き続けた。

 

公務員試験も、それこそ血反吐を吐くくらいに勉強した。

模擬国連ばかりやっていて、法学部なのにさっぱり法律が分からなかった。にも関わらず、勉強を始めたのは周囲より遅かった。だから、ひたすら勉強した。毎日平均10時間。直前は14時間。

勉強を重ねていくと、試験への不安は消えていった。案の定、試験は通った。そしていざ最後の関門、官庁訪問へ準備を始める。

知らない人のために簡単に説明すると、官庁訪問は国家公務員の採用のための集中面接期間。平均して、3つの役所が回れる。僕は外務省の他に、経産省財務省を回った。回った理由はシンプルに、人に魅力を覚えたことと、業務の幅広さに自分を広げられる可能性を感じたから。

 

■挫折と、再スタート。

官庁訪問の結果は、無い内定。茫然自失。気が狂うかと思った。3年間目の前にあった夢が、かくも儚く崩れ去ったのだから。しかも、最後に落ちた理由を聞いて言われたのは「コミュニケーション能力に課題がある」とのこと。正直、はぁっ?って思った。あんな面接で何がわかるんだと思った。そしてアドバイスを求めて返ってきた答えは「模擬国連から距離を置け」だった。

 

悔しかった。自分のこれまでの生き方を否定されたようで。自分の価値観を否定されたようで。

 

けど、思い当たる節はあった。内定を獲得した友人達と自分の間の決定的な差は、やはり人間としての度量の広さと言おうか、大きさが異なるように感じた。

模擬国連以外にももっと色んな経験を積んで、色んな人と出会って、小さくまとまっちゃおうとしていた自分を再び広げる必要があると感じた。

 

そのためには、1年では足りないと思った。2年かけて、魅力的な人間になって、学部卒で入省するという選択肢を取らなかったことを積極的に肯定できるような、そんな時間を歩もうと思った。

 

それからは全力だった。

 

公務員試験で吐き気が出るくらい勉強したのに、さらに大学院の入試勉強。その間祖父が亡くなって、さらに凹んだ。実際、東大の院は落ちた。運よく京大に拾ってもらえたから良かったものの、心身ともにボロボロになっていた。

 

けど、立ち止まりはしなかった。

 

イトクロ(自分の知る限り最高の人材育成企業)で長期インターン。社会人としてみっちりしごかれた。心折れるかと思ったけど、意外と生き残れた。

 

模擬国連の集大成として、自分の問題意識をすべてぶつけた会議を企画。後輩にも、先輩にも、同期にも支えられ、満足いく形で終えられた。

 

大学院では震災ボランティアに行き、被災地の現状に危機感を抱き、何かできることが無いかを模索。復興政策研究会を立ち上げて、色んな人に助けられて、精力的に活動してきた。

 

紛争と貧困への強い関心から、ナイジェリアやカンボジアを訪れた。悲しみと希望にあふれた両国に、強いインプレッションを受けた。

 

シェアハウスも始めた。高校からの知り合いの大植の呼びかけをみて、めちゃめちゃ面白そうと思った。実際に住み始めて、本当に、最高の連中と人生のかけがえない時間を創れている。

 

二年間、全力で、頑張った。

 

■再チャレンジへ

 

そして、就職活動。多分、普通の人の数倍時間は使ったと思う。つくづく俺って人にアピールするの苦手だなと思いながら。割と早めに始めたし、去年、一昨年もちょこっとやっていたからアドバンテージはあるはずなのに、なかなか結果は出なかった。悶々とすることもあった。けど、最後は最も行きたった会社の一つである、JICAからご縁をいただいた。本当に感謝。職員さんは皆さん気さくで、熱い人たちだった。同期になるだろう皆も、一人一人が強い個性を持っていて、良い奴らで、本当に素敵だった。そして何より、途上国のために現場を持って何ができるかを試行錯誤できる、最高のフィールドに、魅力を感じた。

 

けど、やはり、諦められない想いがあった。

 

外交官として、世界の秩序を創っていきたい。

国際協力をするにしても、安全保障や金融協調を含めた、広い手段のある場所にいたい。

何より、一度敗れた夢を、置き去りにしたまま次の一歩を踏み出せない。

 

そんな想いで、学生生活の総決算として、再び霞が関に体当たりした。

 

しかし、二年前に比べ、迷いは増えていた。本当に自分は国のために働きたいのか。世界のために働きたいのだとしたら、国家公務員として、国益の追求を心底望めない自分なんかが外交官になるべきなのか。純粋に途上国のために働きたいのだとしたら、本当に国家公務員が自分の人生にとってベストなのか。

 

そんな悶々とした思いを、官庁訪問中も捨てきれなかった。日本の平和を、産業を守りたいと語る、熱い想いを持つ友たちと話せば話すほど、日本にとって、俺なんかが働くことは望ましいことなのか、疑問に感じた。

 

他方、僕自身は外交官という職業にやはり魅力を感じた。第二次大戦を引き起こしたのは軍部の暴走ではなく、外交の失敗だと私は考えている。逆に、戦禍を招いた日本が他国から尊敬される国になれたのは、外交の成功によるものだと考えている。そうした外交のみが果たせる役割は現として存在し、世界の行く末を決める力だと感じた。

 

だからこそ、やはり外務省で働きたいと強く感じた。

 

しかし、徐々に外務省の評価は落ちていった。

敗因は想定通り。大切な面接でのバカな失敗だった。緊張して声を詰まらせるとか就活でもなかったと思う。なんで肝心な場面でアホなミスをしたのか。

 

正念場と言われたグループディスカッション。自分なりに必要なタイミングで必要な発言が行えたと思った。

 

けど、評価は「高圧的」。内容は見ていないとか。

結局、ご縁はなかった。

 

■サヨナラ外務省

正直、結構悔しかったよ。見えない天井を感じたよ。なまじ、一緒に大学院で勉学をともにし、夢を語った友人が次の選考フローに進む中、自分だけが二の足を踏んで道半ばで帰らざるを無いという状況が、歯がゆかった。俺っていう人間は、この程度かと思ったよ。

 

でも、意外とすっきりした。

 

最後、人事課で二年前官庁訪問をした時に、採用担当をしていたあの人とお話しする機会を設けていただいた。それだけで、僕は外務省の粋な心遣いに目頭が熱くなった。

 

その時、率直に、今年の採用は難しいと伝えられた。そしてさらに率直に、二年前と評価は大きく変わっていないと伝えられた。

 

とどのところつまり、うちの組織とは合わないのだと言われた。俺の長所は、この組織では短所と受け止められる。だから諦めろという話だった。

 

すごいストレートな物言いで、頭をガツンと一発殴られたような感覚を味わったが、逆に納得がいった。

 

そう、結局、ご縁がないのだな、と。

 

うすうす感じていたことではあったけれど。

 

そう思うと、気が楽になって、好きなことを話した。生き方の話を中心に、本のことから、二年間何をしてきたか、まで。

 

最後は握手して、背中に張り手いただいて、飲みの約束をして、一礼をした。

 

サヨナラ、外務省。

 

■40年後の僕に。

とは言え、まぁ、一つ疑問に感じたのは、それならこの二年間意味なかったんじゃない?ということだ。だって、もし以前と自分が変わってないのだとしたら、最初から国家公務員試験受けずに民間の就職活動しとけば良かった話になるわけだから。

そうすると、二年間なんだったんだろう、と思えてくるわけです。

 

しかし、この二年間、実際は僕にとって本当に意義深いものだった。

模擬国連以外に大したコミュニティーを持っていなかった僕が、全然異なる背景を持つ多くの友人と共同して試行錯誤して、一つの方向を創るプロセスを経験できたのは、大学院に来たおかげだった。その過程で、人として多少なりとも成長できたかもしれない。

また、人との出会いには本当に恵まれた。大学院の先輩や同期はもちろん、就職活動で多くの魅力的な友人達と出会えたし、シェアハウスでも沢山の新しい知り合いを創ることができた。

 

思想も学んだ。書物から、人から、経験から。シェイクスピアの魅力は大学四年になってから知った。リアリズムの重要性に、修士一年になってから気づいた。そして、現場を見ることの重要性を、修士になって、日本を、世界を、歩き回って初めて知れた。

 

JICAという最高の職場から内定をいただけたのも、やはりこの2年間があったからなのではないかと思う。 

 

外務省の内定という結果では現れなかったが、僕は僕にとって必要な2年間を、充実した形で過ごせたと、胸を張って言える。

 

昨日、高校時代の友人からいただいた言葉に、かなり感動した。”Meant to be.” どのような道も、その選択はいつか将来につながっていて、意味がある。その通りだと思う。

ケセラセラじゃないけれど、一先ずは運命に従おうと思う。

 

しかし、流される人生ではいたくない。あくまで人生は自らが切り拓くものなのだ。

JICAという素晴らしい環境。そこに身を委ねることに満足してはいけない。

自分のアウトプットを最大化できるように、常に全力で臨まなければならない。

何を持ってすれば社会に意義を提供できるのか、常に試行し続けなければならない。

それができなくなったら、それはただのLiving Dead。僕が僕であるために、前のめりに、ずっと走り続けたい。

 

最後に、40年後の僕よ。今のこの選択が、眼下に溢れる道が、最高の形で繋がっているように、しっかりと前進を続けていてくれ。決して、逃げ出さないでくれ。歩を緩めることなく、この世界のために、国際協力に全力を注いでくれ。そして、最後に言えるようであってくれ。「我が生涯に一片の悔いなし」と。